201死ぬなよ きっと本部へ戻れ・・・ 顔は血と土にまみれる

〈大隊長も苦しそうだが、俺も、こんな苦しいめにはあったことがない。いままでで一番くるしい・・・〉

 田中曹長は、目の前が、だんだんくらくなってゆくのを感じた。遂になにも見えなくなった。吸いこむ空気が、煙筒からの煙か、炎のように熱い。

 入り口のそとから英語の声がする。大勢の敵兵がいるらしい。息もたえだえの負傷兵は、平野少佐の止めるのもきかず、ちよっとでも、小さい穴に変わった入り口へ近よろうと、せまい坑道を入り口のほうへよじのぼる。

〈このままではみんな、あと何分も生きられない。よし、やれるだけやろう〉

 田中曹長は決心した。

「まてッ、俺が穴の口をひらき、そとの敵に手りゆう弾を投げて、空気を入れ替えてやる。全員、奥へさがれ!近づく者は切り捨てるぞ!」

 軍刀を右手に握った。はいよる負傷兵にミネウチをくわせ、ゴウの天井へのぼった。

 穴をふさいでいる石や土のかたまりを、どんどん奥の負傷兵のうえに落とした。負傷兵たちは冷めたい空気を吸いたい一心から痛さも、苦しさも忘れ、つぎからつぎへと石や土を手送りする。

 死ぬように苦しい作業―三十分ほどつづけると五十センチくらいの穴になった。通風が幾分らくになる。

 曹長は穴から外をうかがった。そこに悲惨な光景。ハッと息をのんだ。十五人ほどの各中隊の兵隊が、本部ゴウの入り口に頭を向けて死んでいた。

〈昨夜、各中隊の陣地をまわり、あれほど苦労して全員を本部ゴウに集めたのに、まだ、こんなに陣地に残っていたものがいたのか・・・〉

 彼らは、大隊本部ゴウの危機を救うつもりで突撃してきたものか、ある者は右手に銃を握り、ある者は、ゴウの入り口へ片手をのばし、ことごとく絶命していた。

 川口准尉形見の懐中時計が午後九時数分を示していた。田中曹長は、ゴウ内にあった手りゆう弾を十発ほど持ち、はってゴウを出た。

 二十メートルほどくると左のほうに敵兵のかげが見えた。曹長は、かたくなった戦友の死体を左側につみかさねてたてを作った。

〈ゆるしてくれ戦友よ。あの苦しい戦いをつづけ、倒れたのちまで、弾よけになるのはいやだろう。しかし、これも任務のためだ。ゆるしてくれ・・・〉

 曹長は心でわび、ゴウへもどった。平野少佐に竹浜軍曹と当番兵をつけ、戦友の死体のかげをはわせて、下のくぼ地へ送り出すことに成功した。

 その間曹長は、敵が撃ってきたら―と、手りゆう弾の安全せんを抜き、両手にかたく握って敵の方向をにらんでいたが、敵はこの脱出に気づかなかった。

 平野少佐は、曹長との別れにさいし、そのえん護に感謝するとともに

「田中、死ぬなよ。かならずあとから脱出して弁ガ丘の部隊本部へこいよ。かならず来いよ」

 何度も何度も念をおして去っていった。曹長は、きよう一日の戦闘で数カ所に負傷し、顔じゆう血と土にまみれていた。疲れてもいた。しかし、大隊の跡始末をしなければならぬ―ゴウへもどった。

 成瀬衛生曹長が、重傷者の処置にまよっていた。放置すべきか、それとも毒殺すべきか―

 人間は神ではない。重傷者を放置しても、毒殺しても、良心の苦しみからはのがれられない。田中曹長は、ゴウの外へ飛び出した。

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